金刀比羅宮
金刀比羅宮への参拝は、785段の石段が続く参道口から始まり、奥社までは1,368段もの石段を登ります。参道には歴史的な遺跡や文化財が点在し、美術品を収蔵した御社も見られます。裏参道は四季折々の美しい景色で彩られ、一年を通じて訪れる人々を魅了します。
金刀比羅宮は、琴平山(象頭山)に鎮座し、全国の金刀比羅神社の総本宮として親しまれています。長大な石段の参道や重要文化財、美しい景観、そして風情豊かな町並みは、年間約300万人の参拝者を魅了し、「こんぴら参り」は日本の伝統的な巡礼の一つとされています。
江戸時代には、庶民には旅行が制限されていましたが、金刀比羅宮と京都の六条本願寺は特別な許可を受けて参拝できる寺社として、人々の憧れとなりました。この巡礼の旅が大変人気で、讃岐の金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮)と京都の寺社は「丸金か京六か」と呼ばれるほどでした。清水次郎長(山本長五郎)や森の石松のような人々が代理で参拝し、お守りや刀を奉納したことも伝えられています。
金刀比羅宮の主神は大物主神で、海の安全や豊漁、五穀豊穣、商売繁盛、病気平癒など多くの御利益が伝えられています。また、崇徳天皇もここで合祀され、歴代皇室や大名、一般庶民から広く信仰を受けています。象頭山は古来から瀬戸内海航路の目印とされ、航海の安全を祈る「海の神様」として親しまれています。
基本情報
- 名称
- 金刀比羅宮 (ことひらぐう)
- 所在地
- 〒766-850 香川県仲多度郡琴平町892-1
- アクセス
- JR琴平駅より徒歩20分、琴電琴平駅より徒歩15分、善通寺ICより車で約15分(石段上り口までの所要時間)
- 駐車場
- 近隣に町営駐車場有り(大型バス可)・有料
- 営業時間
- 参拝時間 6:00~18:00、表書院・高橋由一館・宝物館 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 定休日
- 無休 ※博物館施設は社内都合、世情により休館にすることがあります。 ※詳しくは公式HPでご確認ください。
- 料金
- 参拝は無料、博物館施設は一般800円、高・大生400円、中学生以下無料
- 連絡先
- 電話番号:0877-75-2121
- 公式サイト
マップ
詳細情報
金刀比羅宮は、香川県 琴平町の象頭山に鎮座する神社です。
御本宮の御祭神は、大物主神と崇徳天皇です。古来から農業・殖産・医薬・海上守護の神として信仰されています。境内では、神様に奉仕する神職・巫女が一年を通して様々な祭典・神事を行っています。
御本宮の金幣、「幸福の黄色いお守り」、例大祭の「お頭人様」、書院(重要文化財)の円山応挙の障壁画、蹴鞠(県無形民俗文化財)、門前町から御本宮までの785段の石段、「こんぴら狗」などが有名です。
石段1,368段目の山中には、金刀比羅本教の教祖である厳魂彦命をお祭りする厳魂神社(奥社)が鎮座します。
▶由緒
こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)の御本宮は、琴平山(別名「象頭山」)の中腹に鎮まります。
小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」七巻本〔延宝5年(1677)〕の「讃陽名所物産記 第二」には「此山に鎮座三千歳に及と云々。」とあります。「金毘羅山名所圖會」〔文化年間(1804-1818)〕には「金毘羅大権現當山に御鎮座事は、遠く神代よりの事にして、幾百萬年といふ事をしらす。」とあります。
初め大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。
中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。
大物主神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様として全国の人々の厚い信仰を集めています。
「神代の琴平山」〔琴陵光熈、金刀比羅宮社務所文事課、昭和16年(1941)〕によると、「神代の昔琴平附近は海岸で、今の琴平の地は良い港であつた。それ故 大物主大神(大國主神)が國土御經營に當り此良地勢を利用せられ山上に行宮を造らせ給ひ、之を策源の中心として表日本を御經營遊ばされたのである。其行宮の蹟に神靈を鎭祭し奉つたのが即ち金刀比羅宮である。」との伝説があります。
つまり、当時、琴平山は瀬戸内海に浮かぶ島であり、そこに大物主神は行宮を造られたのです。
その行宮跡に大物主神を奉斎したと伝えられています。現在も、琴平山の鬱蒼とした樹林の各所には、往古の遺跡と思われる場所があり、境内のそこかしこで大物主神のご偉業が偲ばれます。
また、そのような謂れもあり、今もなお〝海の神様〟として広く親しまれています。
崇徳天皇〔元永2年-長寛2年(1119-1164)〕は、第75代天皇〔在位 保安4年-永治元年(1123-1141)〕です。諱(いみな)は顕仁です。
保元の乱〔保元元年(1156)〕の後に讃岐国(現在の香川県)にて金毘羅大権現を崇敬し、境内の「古籠所」に参籠されました。また、その附近の「御所之尾」を行宮にされた、と伝えられています。
讃岐国にて崩御された翌年の永万元年(1165)、金毘羅大権現は象頭山(=琴平山)に神霊を迎えて、御本社相殿に「崇徳天皇」として奉斎しました。
崇徳天皇の神霊を奉斎してからの金毘羅大権現の神威は、以前にも増して輝き渡りました。
近世、〝こんぴらさん〟の神威は益々著しく、江戸時代中頃の桃園天皇の御代、宝暦3年(1753)12月、金毘羅大権現を勅願所とすることが仰せ出され、同10年(1760)5月、日本一社の綸旨(りんじ)を賜わり、明治初年(1868)に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が別当に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願していました。
このように金毘羅大権現は歴朝の尊崇を受け、また、諸国の大名武将から一般庶民に至るまで広く信仰され、全国的な航路の発展とともに航海者の信心を集め、全国に勧請(かんじょう)されて金毘羅講が各地におこり、その神徳はいよいよ高まりました。
明治元年(1868)、神仏混淆(しんぶつこんこう)が廃止され、金毘羅大権現は元の琴平神社に復り、同年7月に宮号を仰せられて「金刀比羅宮」と改称し、現在に至っています。