
鶴ヶ城|観光の魅力・歴史・アクセス方法・営業時間を写真&動画でチェック!
基本情報
- 名称
- 鶴ヶ城 (つるがじょう)
- 所在地
- 〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1
- アクセス
- ハイカラさん・あかべぇ「鶴ヶ城入口」下車、徒歩5分磐越自動車道:会津若松ICより約15分
- 駐車場
- 普通車360台(有料)
※鶴ヶ城西出丸駐車場、鶴ヶ城南口駐車場、鶴ヶ城東口駐車場の3か所ございます。 - 営業時間
- 【鶴ヶ城天守閣開城時間】8:30~17:00
※入城締切16:30 - 定休日
- 無休
- 料金
- 【鶴ヶ城天守閣入場料】
大人410円
小人150円 - 連絡先
- 電話番号:0242-27-4005
- 公式サイト
マップ
詳細情報
鶴ヶ城は「会津城」「会津若松城」とも呼ばれ、会津若松市のシンボルとして市民に親しまれています。市内のほぼどこからでもその天守閣を望むことができ、市民公園としても利用されているため、散歩やジョギングを楽しむ人々の姿も見られます。赤瓦や石垣、茶室など見どころも多く、会津の歴史とともに市民の憩いの場となっています。
起源と築城の歴史
鶴ヶ城の起源は、至徳元年(1384)に葦名直盛が築いた「東黒川館」とされています。当時は天守を備えず、館に近い規模でした。その後、戦国武将の伊達政宗が城主となり、さらに豊臣秀吉の命により会津を治めた蒲生氏郷が入城しました。氏郷は文禄2年(1593)に東日本で初の本格的な天守閣を築いたとされ、城下町の名を黒川から「若松」へと改め、城を「鶴ヶ城」と命名したと伝えられます(氏郷の幼名「鶴千代」にちなむ説もあります)。
大地震と改修
慶長16年(1611)には会津盆地で大地震が発生し、当時の七層の天守閣も大きな被害を受けたといわれています。その後、加藤嘉明・加藤明成によって大規模な改修が行われ、本丸を取り囲む出丸の整備など、現在見られるような城郭の姿が整えられました。このとき、天守も五層の構造へと改められています。
戊辰戦争と難攻不落の名声
幕末の慶応4年(1868)、戊辰戦争において鶴ヶ城は新政府軍に包囲され、8月22日から約1か月にわたり籠城戦が繰り広げられました。激しい砲撃を受けながらも持ちこたえたことから「難攻不落の名城」としてその名を天下に轟かせました。しかし戦後、城は大きな損傷を負い、明治7年(1874)に天守閣を含む建物は石垣を残して取り壊されました。
再建と復元
城の復元は昭和40年(1965)に始まり、鉄筋コンクリート造で天守閣が再建されました。平成12年(2000)には江戸時代の工法を用いて「干飯櫓」や「南走長屋」が復元され、平成23年(2011)には屋根瓦を幕末当時と同じ赤瓦にふき替えられました。赤瓦は会津藩祖・保科正之の時代に開発されたと伝えられる雪国向けの瓦で、強度と耐寒性に優れており、現在、日本で唯一赤瓦の天守閣を持つ城となっています。
現在の鶴ヶ城
天守閣内部は博物館として整備され、「若松城天守閣郷土博物館」として会津の歴史資料を展示しています。最上階からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山、さらには白虎隊が自刃した飯盛山を一望できます。
また、城跡は「若松城跡」として国の史跡に指定され、約69,000坪の広大な敷地が市民公園となっています。場内には荒城の月の碑や月見櫓、廊下橋、巨大な「遊女石」など見どころが豊富です。
茶室麟閣と茶道との縁
本丸内には、千利休の子・少庵が建てたとされる「茶室麟閣」があります。利休が秀吉の命で切腹した後、茶道の存続を危惧した蒲生氏郷が少庵を会津にかくまい、その後、秀吉に願い出て千家再興につながったと伝えられています。麟閣は戊辰戦争後に市内へ移築されましたが、平成2年に元の場所に復元されました。
鶴ヶ城と四季
鶴ヶ城は桜の名所として全国的に知られています。春には約1,000本の桜が咲き誇り、夜にはライトアップされた幻想的な姿を楽しむことができます。四季折々の景観も魅力で、観光客や市民に愛され続けています。
鶴ヶ城は約630年前に築かれ、会津の歴史とともに歩んできた名城です。難攻不落の逸話、赤瓦の天守閣、茶道との縁、そして桜の名所としての美しさは、現在も多くの人々を魅了しています。会津若松市の誇りであり、歴史と生活が共存する場所として、現代にその姿を伝えています。