大仏殿のスケール
世界最大級の木造建築として知られ、外観の迫力が印象的です。
AI要約
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奈良を代表する大寺院。大仏殿の迫力と、長い歴史を感じる静かな境内が魅力です。
奈良時代に創建された、日本を代表する寺院です。大仏殿と奈良の大仏で知られ、国宝建築や文化財も多く残ります。歴史好きはもちろん、奈良公園の散策とあわせて立ち寄りやすいのも魅力です。
世界最大級の木造建築として知られ、外観の迫力が印象的です。
盧舎那仏坐像は東大寺の象徴で、初めてでも見応えがあります。
南大門や二月堂など、歴史的価値の高い建物が点在します。
奈良公園を歩いたあとに東大寺へ入り、大仏殿と周辺の国宝建築を見て回るのがおすすめです。
▶東大寺の歴史
東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の菩提を追修するために、神亀5年(728)に建てられた山房(後の金鍾山寺)に源を発し、天平13年(741)に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格してなった大和国国分寺(金光明寺)を前身とする。天平15年(743)に盧舎那大仏造顕(造立)の詔が発せられ、都が紫香楽(滋賀県甲賀市信楽町)から平城に還ると、大和国金光明寺で盧舎那大仏の造像工事が始まり、天平21年(749)仏身が鋳造。同時に大仏殿の建立も進んで、天平勝宝4年(752)に盛大な開眼供養会が営まれた。その後、西塔や東塔、講堂や三面僧房などが造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍順次整った。
東大寺は国分寺として建立されたので、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であったが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗、さらに平安時代の天台と真言も加えた各研究所(宗所)が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。
平安時代に入ると、斉衡2年(855)の大地震によって落下した大仏さまの頭部は真如法親王によって修復されたものの、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊した。しかも治承4年(1180)に平重衡の軍勢により大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼かれた。しかし翌年には俊乗房重源によって復興が着手され、文治元年(1185)に後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養が行なわれた。翌文治2年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)に大仏殿落慶(供養が行なわれた。こうした復興に伴い沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には多くの学僧が輩出した。
ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。時まさに戦国時代であったから、東大寺の復興は難渋をきわめ、大仏さまの仏頭も銅板で覆う簡単な修理しか出来なかった。ようやく江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。
明治時代になって起こった神仏分離令と寺社領没収は東大寺の存立に危機をもたらし、宗制上華厳宗を名乗ることなど寺院改革を迫られたが、それでも明治・昭和時代の大仏殿の大修理をはじめ、諸伽藍の維持に努め、現在に至っている。東大寺はその歴史から貴重な文化遺産を今なお多く蔵しているが、そればかりでなく二月堂修二会をはじめ伝統的な仏教儀礼の宝庫でもあって、毎年日本全国はもとより、世界各地から多くの人々が参詣に訪れている。
▶奈良時代創建 – 聖武天皇の願い –
正倉院に伝わる聖武天皇の遺愛の品々は、天平時代の華やかさを思わせる。だが天皇治世中の政治・社会情勢は決して穏やかなものではなかった。長屋王の変に象徴される権力闘争、光明皇后の兄弟たちを死に追いやった天然痘の流行、九州での藤原広嗣の反乱と、10年以上にわたる激変が続いた。聖武天皇はこうした世の中を癒し、国家の安泰と民衆の幸福をはかるには仏教思想による以外にないと、仏教への傾斜を強められたのであろう。
藤原広嗣が反乱を起こした天平12年(740)以降、天皇は平城京を離れて幾度か都を遷されたが、その間の天平13年(741)、恭仁京において国分寺・国分尼寺建立の詔を出し、天平15年(743)には紫香楽(しがらき)宮で盧舎那大仏造顕の詔を出された。
国分寺の場合は『金光明最勝王経』と『法華経』を、大仏発願は『華厳経』を拠としている。国分寺の正式名「金光明四天王護国之寺」に見られるように、一国を単位として国と民衆の安寧を祈るという趣旨が、2年後の大仏造顕の場合はその範囲をはるかに超えて、「動植咸(ことごと)くに栄えむ」と華厳の円融無礙(えんゆうむげ)の世界を望まれ、大仏造立のために「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う人々の協力を求められた。
こうして天平12年に河内の知識寺に行幸して盧舎那仏を拝されて以来、天皇は華厳の教えに対する理解を深めておられたが、天平感宝元年(749)には正式に『華厳経』をもって根本とする旨を表明されたのである。
さて、天平17年(745)の平城還都以来、東大寺前身の金鍾山寺の寺域で再開された盧舎那大仏の造立は、金光明寺造仏所、のちの造東大寺司によって工事が進められ、3カ年8度の鋳継ぎにより天平勝宝元年(749)10月に仏身が鋳造、翌々年には大仏殿も造営され、同4年(752)4月には盛大な開眼供養会が執り行なわれた。
この大事業は、勧進に当たって民衆の力を結集した行基菩薩や初代の東大寺別当良弁僧正など、多くの人々の協力があって実現したが、そのことを象徴して、東大寺は聖武天皇・行基菩薩・良弁僧正と、開眼の導師を勤めた婆羅門僧正菩提僊那の4人による「四聖建立の寺」とも称される。
▶鎌倉再建 – 重源上人の働き –
平安時代になると、早くも大仏さまの背部に損傷が見られたり、傾斜を止めるために背後に盛り土をするなど補修工事がなされたが、斉衡2年(855)大地震により頭部が落ち、修復がなされた。
一方、大仏殿をはじめ諸伽藍も、天災や失火などにより修復を迫られることが多かった。こうした事業や寺院本来の教学活動のための財源を得るため、この時代には荘園が営まれていたが、平安時代末期になると、東大寺はその荘園をめぐって様々な紛争に巻き込まれ、ついに治承4年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した。
東大寺の復興造営に大きな功績を残したのは重源上人であった。上人は養和元年(1181)、61歳で勧進職に任じられて以来、後白河法皇や源頼朝の援助を受けながら20数年間の後半生を復興事業に捧げた。
まず宋の鋳物師陳和卿の協力を得て、頭部や左手など大仏さまを補鋳、文治元年(1185)に開眼供養を行なった。続いて大仏殿再建のための用材確保に苦慮したが、周防国(すおうのくに)と備前国が東大寺造営料所に当てられてからは造営が急速に進み、建久6年(1195)に落慶供養会が営まれた。さらに翌年には大仏殿の両脇侍と四天王が僅か半年で造られたという。以後、境内の諸伽藍が次々と再建され、鎌倉時代の盛時を生み出した。
▶江戸再興 – 公慶上人の活躍–
室町時代に入ると、東大寺はもはや昔日の勢いはなくなっていたが、それに拍車をかけたのは永禄10年(1567)の三好・松永の兵火であった。大仏殿、戒壇堂、浄土堂、唐禅院、四聖坊などが焼失した。大仏さまは山田道安によって補修され、仮屋も建てられたが、やがて仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされた。
その痛ましい姿を見て大仏殿再建の志を抱いたのが公慶上人で、貞享元年(1684)、江戸幕府に大仏殿修造を願って許され、同3年から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁18枚を補鋳、元禄5年(1692)に開眼供養が行なわれた。また同時に大仏殿の再建も進められたが、天平・鎌倉期の規模を踏襲することは当時の経済事情が許さず、現在見られるような東西を約6割に縮小した形で再建され、宝永6年(1709)に落慶供養が盛大に行なわれた。しかし中門や廻廊が完工するにはさらに30年を要した。
▶明治から現在
この世界最大級の木造建造物はその後焼けることなく明治時代を迎えたが、傷みが激しく、軒は副柱でかろうじて支えられるという状態で、明治39年(1906)から解体修理に着手、内部に鉄骨を用いて補強するなど新しい工法を併用して明治45年(1912)に完成した。
しかし屋根工事に問題があったらしく、時折殿内に雨水が見られるようになったことから、昭和48年(1973)から7年の歳月をかけて大修理が行なわれ、同55年(1980)秋、落慶法要が盛大に営まれた。
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