国内最古の現存教会建築
幕末に建てられたゴシック様式の教会で、長崎を代表する歴史的建造物です。
AI要約
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日本最古級の教会建築で、信徒発見の舞台。歴史好きと長崎観光の定番ですが、坂道と見学時間は少し意識したい場所です。
長崎の外国人居留地に建つゴシック様式の教会で、国内最古の現存教会建築として知られます。潜伏キリシタンの「信徒発見」の舞台でもあり、建築美だけでなく信仰の歴史をたどれるのが魅力です。周辺の散策とあわせて訪れやすい一方、階段や坂道はやや負担です。
幕末に建てられたゴシック様式の教会で、長崎を代表する歴史的建造物です。
潜伏キリシタンと宣教師の再会の場として、日本のキリスト教史を語るうえで重要です。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の一部で、文化財としての価値も高いです。
大浦天主堂を見学したあと、周辺の南山手エリアや出島方面へ回ると長崎の歴史がつながって見えます。
大浦天主堂は、長崎県長崎市南山手町に建つカトリック教会です。幕末の開国に伴って造成された長崎外国人居留地に、在留外国人のための教会堂として建設されました。正式名称は「日本二十六聖殉教者聖堂」といい、1597年に長崎の西坂で殉教した日本二十六聖人に捧げられています。
1864年(元治元年)末に竣工し、翌1865年2月に祝別されました。現存する日本最古の教会堂建築であり、日本における初期の本格的な洋風建築としても重要な存在です。美しい尖塔や尖頭アーチの窓、ステンドグラス、リブ・ヴォールト風の天井などを備えたゴシック調の外観と内部空間が特徴で、長崎を代表する歴史的建造物の一つとなっています。
大浦天主堂は、建築物として価値が高いだけではありません。約250年にわたる禁教の時代を経て、潜伏キリシタンと外国人宣教師が出会った「信徒発見」の舞台であり、日本におけるカトリック再布教の中心地でもありました。
1933年(昭和8年)に当時の国宝保存法による国宝に指定され、戦後の1953年(昭和28年)には文化財保護法に基づく国宝に指定されました。さらに2018年(平成30年)には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとして登録されています。
日本二十六聖人と大浦天主堂
大浦天主堂の歴史を理解するうえで欠かせないのが、日本二十六聖人の殉教です。
16世紀、日本ではフランシスコ・ザビエルの来日をきっかけにキリスト教の布教が進み、九州を中心に多くの信徒が生まれました。しかし、豊臣秀吉はキリスト教勢力の拡大を警戒し、1587年(天正15年)に伴天連追放令を出して、宣教師に国外退去を命じました。ただし、この段階では禁教政策が一貫して厳格に実施されたわけではなく、日本に残った宣教師たちは活動を続けていました。
その後、1596年にスペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着した「サン=フェリペ号事件」が発生します。この事件などを契機として秀吉は態度を硬化させ、京都や大阪で活動していたフランシスコ会の宣教師や日本人信徒らを捕らえました。
捕らえられた人々は京都から長崎まで連行され、最終的に外国人宣教師、日本人修道者、信徒、少年らを含む26人となりました。彼らは1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にかけられて殉教しました。26人は1862年にローマ教皇ピウス9世によって列聖され、「日本二十六聖人」と呼ばれるようになりました。
大浦天主堂は、列聖から間もない日本二十六聖人に捧げる教会として建設されました。そのため、天主堂の正面は、26人が殉教した西坂の方角に向けられています。大浦天主堂と西坂は離れていますが、教会堂の向きそのものに、日本二十六聖人への祈りと追悼の意味が込められているのです。
禁教と潜伏キリシタン
豊臣政権に続いて、江戸幕府もキリスト教を禁じました。特に1610年代以降は禁教政策が強まり、宣教師の国外追放、教会の破壊、信徒の探索と処罰が行われました。
長崎でも多くの信徒や宣教師が殉教し、1622年には西坂で宣教師や信徒ら55人が処刑される「元和の大殉教」が起こりました。さらに島原・天草一揆の後には、宗門改めや寺請制度、絵踏などを通じてキリスト教を取り締まる仕組みが整えられていきました。
厳しい弾圧のなかで殉教を選んだ信徒がいた一方、キリシタンであることを隠して生きる道を選んだ人々もいました。彼らは表向きには仏教寺院の檀家となり、地域によっては神社の氏子として生活しながら、密かにキリスト教に由来する祈りや儀式を受け継ぎました。
禁教期に密かに信仰を続けた人々を、一般に「潜伏キリシタン」と呼びます。宣教師が不在となった後も、長崎の浦上、外海、五島列島、平戸、天草などでは、信徒の共同体が洗礼や祈り、教え、年中行事などを独自の方法で継承しました。
なお、禁教が解かれた後もカトリック教会へ復帰せず、禁教期に形成された独自の信仰形態を守り続けた人々は、学術的には「かくれキリシタン」と区別して呼ばれることがあります。
開国と大浦天主堂の建設
1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結び、翌1859年に長崎などの港が開かれました。長崎には外国人居留地が造成され、欧米人の商人や外交官などが暮らすようになりました。
当時、日本人に対するキリスト教の禁教は続いていましたが、外国人は居留地内で自分たちの宗教を信仰することが認められていました。そのため、外国人カトリック信徒のための教会堂として計画されたのが大浦天主堂です。
ローマ教皇庁から日本への再布教を託されていたパリ外国宣教会は、フランス人宣教師を日本へ派遣しました。長崎ではルイ・テオドル・フューレ神父が教会建設の準備を進め、ベルナール・プティジャン神父も加わって設計や建設を指導しました。
施工を担当したのは、天草出身の大工棟梁・小山秀之進です。西洋の教会建築に関する知識や経験がほとんどなかった時代に、外国人宣教師の指導を受けながら、日本人の職人が本格的な洋風建築を形にした点でも、大浦天主堂は高く評価されています。
教会堂は1864年末に完成し、1865年2月19日に祝別されました。創建当初は現在よりも小規模で、正面に三つの塔を設け、内部を身廊と左右の側廊に分けた三廊式の教会堂でした。正面には、日本人にも建物の用途が分かるように「天主堂」と書かれた扁額が掲げられていました。
「信徒発見」の舞台
大浦天主堂で起きた最も重要な出来事が、1865年3月17日の「信徒発見」です。
大浦天主堂が完成すると、西洋風の珍しい建物は長崎の人々から「フランス寺」と呼ばれ、見物に訪れる日本人もいました。そのなかには、浦上で密かにキリスト教信仰を守ってきた潜伏キリシタンも含まれていました。
1865年3月17日、浦上の潜伏キリシタン十数人が大浦天主堂を訪れました。プティジャン神父が祈っていたところ、一行の女性の一人が近づき、自分たちの信仰を密かに打ち明けたと伝えられています。その告白は、一般に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」という言葉で紹介されています。
この言葉は、「ここにいる私たちは皆、あなたと同じ心、同じ信仰を持っています」という趣旨の告白だったと解釈されています。
浦上の信徒たちは、プティジャン神父との出会いやその後の交流を通して、ローマ教皇とのつながり、司祭が独身であること、聖母マリアへの崇敬などを確認したと伝えられています。これらは、禁教以前の宣教師から伝えられた、正統なカトリックの司祭を見分けるための「しるし」と結び付けて説明されています。
信徒たちは聖堂内で聖母マリア像を見つけ、「サンタ・マリア様」と喜んだと伝えられます。この像は現在、「信徒発見の聖母」または「信徒発見のサンタ・マリア像」と呼ばれ、主祭壇に向かって右側の小祭壇に安置されています。
約250年にわたり宣教師がいない状態で信仰が継承されていたことは、プティジャン神父やヨーロッパのカトリック教会に大きな驚きと感動を与えました。信徒発見は、世界の宗教史上でも非常に珍しい出来事として知られています。
その後、信徒発見を記念してフランスから贈られた「日本之聖母像」が、天主堂正面入口付近に安置されました。信徒発見からちょうど2年後の1867年3月17日に祝別されたことから、「信徒発見記念の聖母像」として大切にされています。
信徒発見後も続いた弾圧
信徒発見によって、浦上だけでなく、外海、五島、大村など各地の潜伏キリシタン共同体の代表者が大浦天主堂を訪れるようになりました。信徒たちは宣教師から教えを受け、カトリック教会とのつながりを取り戻していきました。
しかし、この時点では日本人に対するキリスト教の禁教は続いていました。宣教師との接触によって信仰を公にする人が増えると、江戸幕府は浦上の信徒を捕らえました。明治政府も当初は禁教政策を引き継ぎ、浦上の信徒3,000人以上を全国各地へ移送して棄教を迫りました。これが「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧です。
五島でも信仰を表明した人々が捕らえられ、久賀島では約200人が狭い牢に押し込められ、多くの犠牲者を出した「牢屋の窄事件」が起こりました。大浦天主堂の宣教師たちは、各国の外交官や領事を通じて信徒の釈放を求めました。
明治政府は諸外国から強い批判を受け、1873年(明治6年)にキリシタン禁制の高札を撤去しました。これは、キリスト教を認める法律が直ちに公布されたというよりも、禁教政策が事実上撤廃され、キリスト教の信仰が公に行えるようになった出来事でした。
禁教の終了後、潜伏キリシタンたちはそれぞれ異なる道を選びました。宣教師の指導を受けてカトリックへ復帰した人々、禁教期に形成された独自の信仰形態を守り続けた人々、仏教や神道へ移った人々に分かれていきました。大浦天主堂は、このように潜伏の時代が終わり、新しい信仰の局面へ移っていく転換点を象徴しています。
カトリック再布教の拠点
禁教政策が終わると、長崎や五島を中心にカトリック信徒が増え、各地で教会堂が建設されるようになりました。大浦天主堂は、宣教師たちが各地の信徒を指導する拠点となり、日本におけるカトリック再布教の中心的役割を担いました。
プティジャン神父は1866年に司教に叙階され、日本使徒座代理区の責任者として再布教を進めました。また、建築、医療、福祉、教育、産業などの分野でも活動したマルク・マリー・ド・ロ神父をはじめ、多くのパリ外国宣教会の宣教師が長崎へ派遣されました。
大浦天主堂の境内には、日本人司祭を養成するための神学校も設けられました。1875年に建設された旧羅典神学校では、ラテン語や神学などが教えられました。ここで学んだ人々は、後に日本人司祭として各地へ派遣され、地域の信徒を支えました。
さらに、各地で教理を教える日本人伝道師を育成する伝道師学校も設けられました。宣教師だけでは広い地域を巡回できなかったため、日本人の司祭や伝道師の養成は、信徒のカトリックへの復帰と教会組織の再建において重要な意味を持っていました。
大浦天主堂は、1962年(昭和37年)に長崎教区の司教座が浦上天主堂へ移されるまで、長崎のカトリック教会の中心的な聖堂として機能しました。
増改築と現在の姿
大浦天主堂は、創建時の姿がそのまま残っているわけではありません。台風による被害や信徒の増加などに対応するため、1870年代に増改築が進められ、1879年に現在につながる姿が整いました。
主な拡張工事によって、創建時の木造三廊式教会堂から、外壁をレンガ壁漆喰塗りとする五廊式教会堂へと改められました。建物の規模が拡大されるとともに、内部と外観がゴシック調に統一されました。
現在の大浦天主堂はレンガ造ですが、外壁の表面には白い漆喰が塗られています。そのため、一見すると石造や漆喰塗りの建物のように見えます。建物の正面側には八角形の尖塔が立ち、その上に十字架が掲げられています。尖頭アーチ形の窓、細長い柱、建物を垂直方向に強調する構成などに、ゴシック建築の特色が表れています。
一方、瓦葺きの屋根や漆喰仕上げ、日本人大工による施工技術などには、日本の伝統的な建築文化との融合も見られます。純粋なヨーロッパの教会建築をそのまま移したのではなく、外国人宣教師の指導と日本人職人の技術によって生み出された、幕末から明治初期の和洋折衷建築として価値があります。
聖堂内部とステンドグラス
聖堂内部では、祭壇へ向かって伸びる列柱と尖頭アーチ、天井を覆うリブ・ヴォールト風の構造が荘厳な空間をつくり出しています。
天井は、ヨーロッパの石造教会のように石で造られているわけではありません。木材や竹などを用いて曲面を形づくり、その上を漆喰で仕上げることで、石造のヴォールト天井に似た姿を表現しています。これは、日本の職人が伝統的な材料と技術を応用して西洋建築を実現した例です。
窓には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、差し込む光が聖堂内を神秘的に彩ります。ステンドグラスは災害による損傷や修理を経ているため、すべてが創建当初のものではありませんが、一部には1879年の増改築当時に由来するとされる古いガラスが残っています。
堂内には「信徒発見のサンタ・マリア像」のほか、日本二十六聖人に関係する祭壇やプティジャン司教の墓碑などがあり、大浦天主堂が歩んできた歴史を伝えています。プティジャン司教は1884年に亡くなり、大浦天主堂の地下に埋葬されました。
原爆による被害と修復
1945年(昭和20年)8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、大浦天主堂も爆風によって損傷しました。爆心地に近かった浦上天主堂ほど壊滅的な被害ではありませんでしたが、屋根や天井、窓などが被害を受けました。その後、修復工事が行われ、教会堂の姿が整えられました。
大浦天主堂は1933年に国宝保存法による国宝に指定されました。1950年に文化財保護法が施行されると、旧制度の国宝は法律上、重要文化財として扱われることになり、大浦天主堂は1953年3月31日に、新制度に基づく国宝に指定されました。
したがって、「原爆被害によって国宝指定が解除され、修復後に再指定された」という単純な経緯ではありません。文化財制度の変更を背景として、戦後の文化財保護法に基づく国宝指定を受けたと説明するのがより正確です。
世界文化遺産としての価値
2018年、大浦天主堂は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する12の資産の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
この世界遺産は、17世紀から19世紀にかけてキリスト教が禁じられたなか、潜伏キリシタンがどのように信仰を継承し、共同体を維持したのかを伝えるものです。大浦天主堂は、その一連の物語の最終段階に位置付けられています。
大浦天主堂での宣教師との接触は、潜伏キリシタンに大きな転機をもたらしました。信徒たちは、カトリックへ復帰する人、禁教期に形成された独自の信仰を続ける人、仏教や神道へ移る人に分かれ、長く続いた「潜伏」が終わるきっかけとなったからです。
したがって、大浦天主堂の世界遺産としての中心的価値は、単に現存する国内最古の教会堂であることや、ゴシック調の美しい建築にあるだけではありません。宣教師と潜伏キリシタンが再会し、禁教下で受け継がれてきた信仰が新たな段階へ移った場所であることが、特に重要です。
大浦天主堂キリシタン博物館
大浦天主堂の境内には、教会堂のほかにも歴史的建造物が残っています。これらの一部は「大浦天主堂キリシタン博物館」として公開され、長崎のキリスト教史を伝える資料が展示されています。
代表的な建物が旧羅典神学校です。1875年にド・ロ神父の設計によって建てられた、日本人司祭を養成するための学校で、国の重要文化財に指定されています。木造の骨組みの間にレンガを積む木骨レンガ造を採用し、堅牢さと美しい洋風意匠を兼ね備えています。
旧長崎大司教館は、老朽化した初代司祭館を建て替えるため、ド・ロ神父の設計、鉄川与助の施工によって1915年に完成しました。当初は司教館として使われ、1959年に長崎司教が大司教となったことに伴い、大司教館となりました。
館内では、日本へのキリスト教伝来、禁教と弾圧、潜伏キリシタンの信仰、信徒発見、禁教政策の撤廃後における教会の再建などについて学べます。
大浦天主堂だけを見学するのではなく、博物館の展示とあわせて巡ることで、教会堂の建築的な美しさだけでなく、その背景にある約450年に及ぶ長崎のキリスト教史を、より深く理解できます。
大浦天主堂は、幕末に建てられた美しい洋風建築であると同時に、日本二十六聖人の殉教、長い禁教、潜伏キリシタンによる信仰の継承、信徒発見、再度の弾圧、禁教政策の撤廃とカトリックの再布教という歴史を一つにつなぐ場所です。
長い階段の先に立つ白い天主堂、光を受けて輝くステンドグラス、信徒発見の聖母像などを眺めながら、約250年にわたって信仰を受け継いだ人々と、その存在を知った宣教師たちの驚きや喜びに思いを巡らせることが、大浦天主堂を訪れる大きな意義といえます。
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