岡山後楽園
岡山後楽園には歴史的な建物も多く残り、一般公開されています。藩主の居間である「延養亭」や「能舞台」などがあり、年に数回特別公開が行われています。この庭園は「日本三名園」の一つに数えられ、国の特別名勝にも指定されており、歴代の藩主たちが愛した「やすらぎの場」として、今でも多くの人々に親しまれています。
江戸時代の風情が色濃く残る岡山後楽園は、日本の歴史と文化を感じられる場所として、四季折々の美しい景色や文化イベントを提供しています。訪れる人々に、江戸時代の日本庭園の魅力を余すことなく楽しむ機会を提供しています。
基本情報
- 名称
- 岡山後楽園 (おかやまこうらくえん)
- 所在地
- 〒703-8257 岡山県岡山市北区後楽園1-5
- アクセス
- JR岡山駅から徒歩約25分または、バスで約15分または、路面電車で約4分「城下」下車、徒歩約10分
山陽自動車道岡山ICから約20分 - 駐車場
- 普通車570台、障害者枠12台、バス12台
普通車:100円/1時間、バス:620円/1日1回 - 営業時間
- 3月20日~9月30日:7:30~18:00、10月1日~3月19日:8:00~17:00(入園は15分前まで)
※行事開催により開・閉園時間を変更することがあります。 - 定休日
- なし
- 料金
- 大人410円、65歳以上140円、高校生以下無料 ※高校生は入園時に生徒手帳を提示してください
- 連絡先
- 電話番号:086-272-1148
- 公式サイト
マップ
詳細情報
▶後楽園の概要
▸時代と共に移り変わる後楽園
岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。
綱政の時代には、藩主の居間延養亭[えんようてい]や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。
綱政の子継政[つぐまさ]は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政[はるまさ]は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。こうした時代ごとの藩主の好みや社会事情によって後楽園の景観は変化し、その積み重ねが歴史となっています。
▸江戸時代のおもかげを伝える日本三名園
また、江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは、参勤交代で岡山を留守にする間は日を決めて庭を見せています。また、藩主のお客をもてなす場としても使われました。
明治4年(1871)、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡しました。当初は公園ではなく県庁付属地として公開されたため、日没閉門などの決まりを作って保存が図られました。
昭和9年(1934)の水害、20年の戦災に遭いましたが、江戸時代の絵図などに基づいて復旧がはかられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく今日に受け継がれています。
大正11年に名勝に指定され、昭和27年には文化財保護法による特別名勝に指定されました。江戸時代のおもかげを伝える庭園として多くの方に愛され、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とあわせて「日本三公園」と称され、今では日本三名園として親しまれています。
▶後楽園の歴史
▸藩主のやすらぎの場の創出
築庭より少し前、岡山藩では城下町のすぐ東を流れる旭川とさらに13キロほど東に位置する吉井川の間に広がる遠浅の海の干拓を行っていました。池田綱政[いけだつなまさ]の父で名君と謳われた池田光政[みつまさ]の治世から続く新田開発や城下町や旭川流域の農村を洪水から守る百間川[ひゃっけんがわ]の整備に着手していましたが、遠浅の海であった児島湾の大規模な干拓を成功させるには、排水と用水を兼ねた大きな放水路百間川の整備が急務となり、貞享2年(1685)から翌3年にかけて築堤工事が本格化しました。
その結果、城の背後に広がっていた大きな河原が、洪水被害を受けやすかった場所から比較的安定して使える土地となりました。そこで、綱政は干拓工事を一時停止し、後楽園の築庭を命じました。貞享4年(1687)のことです。それから約4年間は後楽園の築庭に集中し、元禄5年(1692)になって児島湾の干拓が再開されました。
江戸時代における日本最大の干拓地、沖新田1800町歩はこうしてできあがりました。
『岡山後楽園史』では、後楽園築庭は単独の工事ではなく、郡部の開発の一つとして位置づけています。こうした一連の大規模工事は、岡山藩の重臣津田永忠が総指揮を執っています。
こうして、城の背後にあって通うのに便利な場所に藩主の安息の場が作られたのです。また、岡山大学附属図書館の池田家文庫に残る江戸時代の後楽園の管理記録『御後園諸事留帳』などによると、後楽園は藩主が日常生活を過ごす場所の一つとなっており、飾り物ではなく生きた空間として活用されていたことがわかります。さらに、時として岡山藩の領民の入園も許し、ともに楽しむ空間であったことも明らかになってきています。
▸後楽園の歴史あれこれ
1.築庭の過程と一応の完成
池田家文庫に残る絵図を見ると、後楽園築庭にあたって現在の庭園の景観に直接つながるような一つのプランがあったのではなく、使いながらいろいろ工夫を凝らして徐々に園域と庭園の景観が整備されていった様子がうかがえます。
2.築庭当時の風景
近年、林原美術館で確認された綱政の日記とも和歌集ともいえる『竊吟集』[せつぎんしゅう]には、築庭から間もない元禄2年の庭を眺めて、手をあまり加えていない田園風景の中では時間がたつのも忘れるという感慨が残されています。
3.ともに楽しむ庭
江戸時代の後楽園には、許しがあれば領民も入ることができました。能を好んだ綱政は自ら舞う姿を見せたり、継政以後の藩主たちは参勤交代で岡山を留守にする間は、日を決めて庭を見せています。
4.後楽園の変化
綱政の子継政が高さ約6メートルの唯心山[ゆいしんざん]を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせています。 また、能舞台の周辺の建物も大きく改築しました。この改変で園内に高みができ、庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。
5.岡山県に譲渡
明治17年(1884)、池田家から岡山県に名園保存を目的に譲渡されます。当初は、公園ではなく「県庁付属地」として公開されたため、一般の公園とは違い、日没閉門などの決まりがありました。園内での茶店の営業も3軒だけにしか許可されませんでした。
6.災害と復旧
昭和9年の室戸台風、20年の戦災では大きな被害を受けました。いずれも江戸時代の絵図に基づいて復旧が進められましたが、園路の単純化など災害前と変化した部分もありました。現在の地割りは、直接的にはこの時の改修を引き継ぐものとなっています。